若泉 敬 京都産業大学教授の遺徳を偲ぶ講演

吉村 信二氏(「三縁の会」代表、京都産業大学OB、福井県出身)が、若泉 敬 京都産業大学教授の遺徳をしのび、平成25年7月27日(土)、福井県鯖江市で「若泉 敬先生と私―ご鴻恩を偲んで―」と題する白熱の講演を行いました。国際政治学者・教育者としての若泉教授の知られざるエピソードを紹介するとともに、「自己犠牲をも惜しまぬ、価値と実現」の実践として、いかに「不撓不屈の信念」を以って国家のために、そして大学・学生やふる里のためにと、挺身された<かの事実>について語りかけました。

講演に先立ち、京都産業大学同窓会福井県支部の会員のほか、富山、石川、岐阜、京都、大阪からも同窓生が馳せ参じ、命日となる晴天のこの日、若泉教授へのそれぞれの思いをたむける墓参と17回忌法要が営まれました。

■墓参と講演の様子は『日刊県民福井』<7月28日・第5面>、『福井新聞』<7月29日・第19面>の「写真入り記事」で報道されました。
(2紙の新聞記事参照)

■講演では若泉 敬先生の生涯における事績の再考察と共に、次代を担う若者に唱え続けた「我が人生、いかに生くべきか」「何が本質なのか、真贋を見抜き本物の生き方を探求しよう」などの熱きメッセージが紹介されました。
その他、先生の熱情や鼓動が今も伝わる「伝心(心を伝える)」の書簡、新聞の論考記事や写真など、その一部が披露されました。



「若泉 敬先生のエピソード」を語る吉村信二氏サバエ・シティーホテルで
「若泉 敬先生のエピソード」を語る吉村信二氏

サバエ・シティーホテルで
<2013.7.27>


「若泉 敬先生と私」
出会いと鴻恩を偲ぶ

若泉 敬先生に初めてお会いしたのは、私(昭和25年9月7日生れ)が福井県立若狭高等学校3年生で、大学受験期の1969(昭和44)年1月でした。
場所は、ひなを奥様のご実家(福井県武生市)です。
先生からは「京都産業大学は新しい大学です。ともに学びフロンティア精神で立派な大学にしましょう」とのお誘いをいただきました。その時の「仁なる眼差し」は深い感激となって、生涯忘れることができません。

同年、京都産業大学法学部に入学。学生寮・自治会活動を通じて大所高所のご助言ご指導をいただき、卒業と同時に母校に事務職員として奉職。爾来「知の奔流・教育の道場」を纜(ともづな)に「運命共同体」として学生、教職員と共に大学の進運に夢を抱き汗を流しました。

先生は「世界の中の日本、自国の安全保障」のありかたについて研究、実践に邁進され公論をリードし、一命をかけて「沖縄の祖国復帰」という回天の大業を成し遂げられたのです。

先生は国際政治学者、教育者、真摯謹厳で文武両道の練達の士、慈父として、私と家族を終生愛して下さいました。私にとっては「人生の師表」として、永年にわたり汲めども尽きぬ泉のご鴻恩をいただき、心の奥底から景仰でき得る喜びと、深い縁を大事にしたいものと念じています。

若泉 敬先生の御魂は「北斗の星」「愛国の道標」となり、日本の次代を担う青年には、毅然とした自主独立の精神を以って「我が人生、いかに生くべきか」を問い続けて欲しいと、今もなお語りかけているのです。

2013(平成25)年7月27日
ふる里の 澄みわたりたる 夏の空
吉村 信二






『日刊県民福井』<7月28日・第5面> 『福井新聞』<7月29日・第19面>
川魚料理「渓流荘」に遊ぶ<若泉 敬先生62歳 吉村Pt撮影> 全米の世論を沸騰させたテレビ討論番組に出演<若泉 敬先生41歳> タイトル「アメリカは日米安保条約を破棄すべきか否か」
「伝心のはがき」その②(ウラ)『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス<1994(平成6)年5月15日第一刷 文芸春秋>の公刊近い頃
「伝心のはがき」その①(オモテ) <若泉 敬先生63歳>
若泉 敬先生ご逝去 1996(平成8)年7月27日(土)午後2時50分 享年66歳 「伝心の書簡」<若泉 敬先生65歳>
アーミン・マイヤー駐日米国大使のレセプション(東京)1972(昭和47)年3月16日(木)≪左側 若泉 敬先生41歳、ひなお奥様41歳≫若泉 敬先生ははニクソン政権の「日米繊維交渉」をめぐってマイヤー大使とのチャンネルを持った 『トインビーとの対話 未来を生きる』<インタビュー時の若泉 敬先生40歳>
京都産業大学追分寮で熱く語る<若泉 敬先生54歳> 若泉ご夫妻 沖縄の「白梅之塔」に鎮魂の祈り
ふる里の地方紙『日刊福井』(現『日刊県民福井』)への寄稿文 1987(昭和62)年8月1日 京都産業大学を去る前夜 幾星霜を追想して<若泉 敬先生62歳・吉村信二42歳>
阪神大震災に思う「伝心のはがき」その②(ウラ) 阪神大震災に思う「伝心のはがき」その②(オモテ)<若泉 敬先生64歳>

三縁の会

更新情報