シンポジウム 若泉 敬先生の再発見

京都産業大学創立50周年記念シンポジウム 若泉 敬先生の再発見-沖縄返還交渉と日本の未来-

京都産業大学創立50周年記念シンポジウム 若泉 敬先生の再発見-沖縄返還交渉と日本の未来-

京都産業大学創立50周年記念シンポジウム 若泉 敬先生の再発見-沖縄返還交渉と日本の未来-

<Pt.モラロジー研究所提供>

京都産業大学創立50周年記念シンポジウム 若泉 敬先生の再発見-沖縄返還交渉と日本の未来-
<Pt.京都産業大学提供>


「京都産業大学における若泉敬先生」

京都産業大学 五期卒業生

吉 村 信 二

Professor Kei Wakaizumi at Kyoto Sangyo University

Shinji YOSHIMURA

 

 京都から参りました吉村信二です。限られた時間ということで、語り尽くせぬことは沢山ありますが、どうぞよろしくおつき合い願えたら幸いでございます。そして、会場の皆さんに配付させていただきました、私からの小冊子『若泉敬先生に学ぶ』をご覧下されば嬉しゅうございます。

 実は若泉先生の『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』に関しては、発刊とか出版ではなく、あくまでも「公刊」という言葉を大事になさっていました。その「公刊」(平成6 年5 月15 日)の二ヵ月ほど前に、先生のほうから一度鯖江へ来てくれないかということで参りました。その日は泊まる約束をしていたのですけれども、たくさんの原稿をドカンと持ってきまして、これを読んで欲しいと申されました。

 拝読するに、先生の一大決心を私なりに感じたことが、昨日のように思い出されてなりません。
そのときに先生がにこっと笑いながら「吉村さんよ、せっかく来てくれたんだから、僕の大事にしていたものを幾つかあなたに差し上げようと思って用意したんだ」ということで、愛用の腕時計を頂きました。これはニクソン大統領の補佐官だったキッシンジャーさんと丁々発止の外交交渉をやりましたときの時計です。

 それから、先生は100 通近いお手紙をくださったのですけれども、これも差し上げるよということで使い慣れたモンブランの万年筆です。それからもう一つはメガネです。

 今日はこの会場にも一般の方々や卒業生の皆さんをはじめ、メディアの方とか、学者の皆さんとか、謦咳に接した方々が大勢いらっしゃるわけです。僕は先生がこの会場にいて、にこにこしながら、佐伯先生、西原先生、東郷先生の話、もちろん所先生の話をお聞きになっていると思いますので、こうして先生のメガネをかけます。

 僕には後ろに先生がいらっしゃり、背中を押してくださっているという気持ちで、この時計も腕にはめさせていただきます。

 

 

若泉先生から若者へのメッセージ

 まずは、私自身がイガグリ頭の福井県の若狭高校3 年生のときに若泉先生との出会いがあったということについて。
ちょうどこの時期というのは、先ほどもご案内がありましたように日米京都会議、正確には「沖縄およびアジアに関する日米京都会議」というのですね。西暦でいうと1969 年です。

 和暦でいうと昭和44 年の1 月28 日から31 日の間に国立京都国際会館で行われるのです。これがその後の沖縄返還の「対米交渉前哨戦」です。

 そのとき僕は先生にお手紙を出しておいたのですけれども、ご返信をいただきました。福井に立ち寄るから、ちょっと武生で会おうねということで、奥様のひなを様のご実家でお会いさせていただいたことが、初対面でございました。

 なお、ひなを奥様は若泉先生と福井師範学校でご一緒され、明治大学に学び、福井県最初の女性弁護士でいらっしゃったお方なんです。

 若泉先生は本当に何か目の澄んだお方で、「仁なる眼差し」は深い感激となって、生涯忘れることができません……と僕はこの小冊子で表現をしています。(京都産業大学は)本当に新しい大学だけど、共に学び共にこの大学を日本の、世界の冠たる大学にしていこう、そういうお誘いをいただいたことが僕の原点であり、初発であったわけです。

 そういうことで、京都産業大学に入学し、学生寮とか自治会活動にも励みました。卒業と同時に母校に奉職させていただいて36 年、本当に長い間、僕は皆さんに鍛えられ、助けられ、そして多くの皆さんに導いていただいたわけでございます。

 まさしく「知の奔流・教育の道場」を纜(ともづな)に、「運命共同体」として学生、教職員と共に大学の進運に夢を抱き、汗を流してきたんだなと思います。

先生は確かに国際政治学者でございましたけれども、僕にとっては慈父であり、そして僕と家族を終生愛してくださったということで、まさしく「人生の師表」でございます。

 「日本の次代を担う青年には、毅然とした自主独立の精神をもって、我が人生、いかに生くべきか」を自問する。この言葉は先生の口癖でした。

 若泉先生は若い学生さんたちに、そのおもいを繰り返しお伝えされたのです。

 昭和55 年3 月29 日、先生は50 歳の誕生日に、東京から郷里の福井県にお帰りになって、鯖江市に居を構えられます。

 地元新聞の日刊福井の「正言」というコラムに何本もの論説をお出しになっています。そこでは教育者として「若い人たちに、頑張ってね」とエールを送っておられます。

 それから私的なことで恐縮ですが、「正言」のなかで、「大学に合格したS 君への手紙 ― 人生の礎をつくる学生生活 ―」という記事があります。これはもう時効で許していただけると思うのですけれども、先生が原稿用紙に手書きの生原稿を私に送ってきました。

 「S 君というのは君のことなのだ、信二君の気持ちで書いたから一回読んでくれ」と。僕は京都産業大学の新入生に戻った気持ちで、拝読しました。

 僕は一ヵ所だけ注文をつけました。記事の最後に「最後になって気づきましたが、学生の本分たる学問に励んでもらうことを、つい書き忘れるところでした。昔からよく学び、よく遊びといいますね。S 君、大いに学生生活をエンジョイしてください」とありました。

 僕は「内村鑑三博士の善学善遊をお入れになったらどうですか」とお電話を入れました。「ちょっとこれは難しい言葉だから、よく学び、よく遊びにしようね」ということで終わりました。

 

若泉先生の日本に対する思い

 先ほどフロアのほうからご質問をいただいておりますので、それにお答えさせていただきたいと存じます。このご質問は、恐らく卒業生さんからですね。あえて卒業生のよしみとして全文を拝読させてください。

「ともすれば、沖縄返還の密使として活躍がクローズアップされている若泉敬先生ですが、教育者として京都産業大学の教授でありました。

当時は敗戦で大人は自国の歴史と文化には自信をなくし、若者は“戦争を知らない子どもたち”として、先の戦争については、知らなくても良いこととして、あえて目をそらすように教えられてきました。若泉先生は大学生に対して“何のために学ぶのか”、極論すれば“この人生をいかに生きるべきか”を伝えようとされていたのか」

 「在学中ならびに卒業後も若泉先生と親交の深かった吉村さんにお話をいただけたら」ということですね。

 僕は嬉しいんです。こういうご質問をいただいて「あっ」と思ったのですけれども、先生が唱えられた日本のあるべき姿ということを僕なりに集約しました。「現世に生きる生者は、死者の思いを忘れてはならない」という座標軸ですね。

 それは、世界の中の日本、日本人は、日本の社会はどうあるべきか、そして若い人たちは勇を鼓して挑戦し、「我が人生、いかに生くべきか」を生涯にわたって問い続けてほしい、というところに行き着くと思っています。

 

結びに代えて ― 若泉先生ご子息からのメッセージ ―

 若泉敬先生のご長子でいらっしゃる耕さん、改め聡一郎さんの赤心をば皆さんにお伝えしたいという気持ちから、会場の皆さんにご配付いたしました(A4 版)6 枚の「御礼の言葉」を預かってまいりました。シンポジウム開催に至った多くの方々のご努力に感謝しますということを聡一郎さんは、何度もおっしゃっています。

 ここに、一部分をご紹介させてもらいます。「諸事情がございまして、不肖の息子は出席させていただくこと能わず、非礼を拙文にておわびし、また深謝を申し上げさせていただくことをどうかお赦しください。

 苦しき逡巡の末に1980(昭和55)年3 月29 日、50 歳の誕生日に、若泉は人生の一大決心をして、東京から郷里の福井に隠棲いたします」これは若泉聡一郎さんに先生がおっしゃった言葉なのですが、「ともかく一刻も早く、この時計を外したいんだ、と腕時計を引きはがすジェスチャーを私に示し、魑魅魍魎の棲む政治の世界から、なるべく自由でありたいと願った若泉でした」ということです。

 そしてまた、聡一郎さんは、今、青山学院の大学院におりまして修士論文を作成中なのですけれども、杉浦勢之先生にご指導をいただいております。勢之先生のおじい様であります、石川栄耀博士が『戦場を弔う』という題で琉球歌をお詠みになっています。
ぜひこれも何かの縁でございますので、この「御礼の言葉」の中からご覧いただけたらと存じます。

 「末筆ながら、学校法人京都産業大学の首脳部の皆様方、学生の皆様方、とりわけ草創期の皆様方には、大変お世話になり、支えていただき、若泉敬を育てていただきました。心より深謝申し上げます。ありがとうございます。

 このシンポジウム開催実現に向けて大変なご準備等お務めいただきました、ご卒業生の加藤康成様、木野正博様、丹吾俊次様、三枝清様はじめ多くの皆様方から、粉骨砕身のご尽力を賜りました。ここに篤く篤くお礼を申し上げ、鳴謝の意を捧げます。まことにありがとうございました」ということで、若泉聡一郎さんの切々たるおもいの一端を述べさせていただきました。

 これで、私の拙い発表を終わります。ご清聴ありがとうございました。

 

パネルディスカッション後半(議論)

 今、所先生がいみじくも申されたように、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』の巻頭部にあります「宣誓」の文言の中で、「永い遅疑逡巡の末、心重い筆を執り遅遅として綴った一篇の物語を、いまここに公にせんとする。歴史の一齣への私の証言をなさんがためである」

「自ら進んで天下の法廷の証人台に立つ」というその決意は、若泉先生の人生の「真骨頂」といえましょう。

 特に若泉先生は生前から「敗戦国日本」という言葉を随分使っていらっしゃいました。つまり敗戦と占領に直面した日本人というのは打ちひしがれたのです。卑屈になって、国のあり方と自己の否定がずっとこの70 年続いてきたわけです。

 この卑屈というものに対して、先生はそこに突破口を開けたい。もちろん歴史的な事実を残すということも大事ですが、卑屈であってはならないということを力説されました。

 漢文学者で歌人の太田青丘先生が戦後間もない昭和22 年の『潮音』で歌をお詠みになって、GHQ から発禁になりました。それは「民族のこの忍従が百年の卑屈となるを我は恐るる」です。この言葉を僕は若泉先生からお教えいただいて、胸に突き刺さりました。

 現世に生きる我々は心眼を開いて、死者の魂の叫びを忘れてはならない。ならば卑屈になっちゃいけないのだというところに、先生はこの『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』を何としても公刊し、後世に伝えねばならないと、意を強くされたのです。

 私は今も、そのように思っています。




<京都産業大学 世界問題研究所紀要 第31巻(抜粋) 平成28年3月発行>


三縁の会

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